青のゆくえ

 

中村悠人（なかむら・ゆうと）は、夏の終わりに祖父の家へ行くことになった。
部活の引退試合も終わり、大学受験を控えた高校三年生。
担任にも「そろそろ志望校を固めような」と言われていたが、どこか気が乗らなかった。
親に言われるがまま、無難な国立大学を目指しているだけで、自分が何をしたいのか、何を目指しているのか、答えは見つからなかった。

祖父の家は海の近くだ。
悠人が幼い頃、よく遊びに行った記憶があるが、中学生になってからはすっかり疎遠だった。
「じいちゃん、元気にしてるの？」と母に聞くと、「まあね。でも最近少し足腰が弱ってきてて…」と少し濁された。

電車を乗り継ぎ、バスに揺られて二時間。
最寄りのバス停から歩く途中、潮風が顔を撫でた。
青く澄んだ空と海、その境目がゆっくりと揺れている。

「おお、悠人か！　大きくなったなあ！」

玄関で出迎えてくれた祖父は、白髪の混じった髪に麦わら帽子を被り、以前と変わらぬ笑顔だった。
けれど足取りは確かに、少しだけ遅くなっていた。

「じいちゃん、一人で大丈夫なの？」
「まあ、なんとかなっとるよ。おまえが来てくれるだけで助かるわい」

その日の夕食は祖父と二人で食べた。
昔話や魚のさばき方、漁の話を楽しそうに話す祖父。
悠人はそれを聞き流しながらも、どこかで懐かしさに包まれていた。

翌日、祖父は悠人を連れて、丘の上にある古い灯台まで散歩に出かけた。
道すがら、祖父はポツリとつぶやいた。

「わしも、昔はこの海で働いとったんじゃ。嵐の日も、真冬の朝もな。命懸けじゃった」

「大変だったんだね」
「でもな、不思議と後悔はしとらん。毎日、この海と一緒に生きとった。生きてる実感ってやつじゃな」

灯台の上から見下ろす海は、どこまでも青かった。
けれど、その言葉が、悠人の胸に強く残った。

その夜、悠人は眠れなかった。
窓の外から虫の声と波音が微かに響く中、祖父の言葉が頭を離れなかった。

「生きてる実感、か……」

思えば、自分はずっと誰かに言われたレールの上を歩いてきただけだった。
いい高校に入り、いい大学へ行くのが当然のことのように。
だけどその先、自分は何がしたい？
何のために生きたい？
答えは、まだ見つからない。

三日目の朝、祖父がぽつりと言った。

「悠人、おまえ、ちょっと海に出てみるか？」

祖父の古い漁船は、今はほとんど使われていなかったが、まだ動いた。
エンジンの音と共に、船はゆっくりと港を離れる。

「見ろ、朝の海はきれいじゃろう」

青く澄んだ水面に、朝日が差し込む。
風は涼しく、波は穏やかで、世界は静かに息づいていた。
悠人は、初めて気づいた。
世界がこんなにも広く、こんなにも美しいことに。

「じいちゃん、この海の中で何を思ってたの？」
「ん？　死にそうなときは、嫁さんのこと考えたな。生きて帰らにゃ、ってな」

「それ以外は？」
「そうじゃな……この命を、どう使うか、ちょっとだけ考えとった。わしらの命ってのは、消えてなくなるもんじゃ。でも、誰かの記憶や、残したものにちょっとだけ残る。それで十分じゃと思うんじゃ」

夕方、港に戻った頃には、悠人の胸の中に何かが芽生えていた。
それが何かは、はっきりとは言えなかった。
けれど、「生きるって、こういうことかもしれない」と思った。

夏休みの終わり、悠人は家に帰った。
祖父の家を離れる直前、祖父が手渡してきたのは一枚の古びた写真だった。

若かりし日の祖父が、漁船の上で笑っていた。
背後には、今と変わらぬ青い海。

「これを見て、たまには思い出してくれや。おまえがどこから来たか、ってことをな」

それから数日後、悠人は志望校を変更した。
誰かに勧められた場所ではなく、自分の手で選んだ道。
海に関わる研究を学べる大学だった。

自分の人生を、自分の手で漕ぎ出すために。
あの海の青さが、今も悠人の心を照らしている。

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