蛇
この話を、私は或る古物商の老人から聞いた。場所は東京・向島の裏通りにある畳の剥げた小さな店であった。蒐集家たちは、その老人を「蛇屋の源七」と呼んでいたが、実際に蛇を商っていたわけではない。ただ、彼の口から語られる古道具の来歴が、どれもこれも蛇のように長く、執念深かったというだけである。
源七は、ある日、私に一幅の掛け軸を見せた。墨一色で描かれた不動明王の像であった。だが、その不動は、何か、言いようのない違和感を孕んでいた。火焔光背がなぜか背後でなく、足元から這い上がっている。そしてその炎の中に、蛇が一匹、舌をちろちろと出して絡みついているのだった。
「先生、この掛け軸の話をお聞きになりますか?」
源七はそう言って、まるで煙草のヤニが染み込んだような声で語り始めた。
昔、ある寺に一人の若い法師がいた。名は智海という。まだ年は二十に満たなかったが、経文は空で唱えることができ、論義も見事なものであった。何より容貌が美しかった。やや面長な顔に、涼しげな眼差し。端坐するその姿は、まるで東大寺の金剛力士像のように凛としていた。
あるとき、智海は夢を見た。夢の中で、白い衣を纏った女が現れた。女は美しく、また哀しげな眼をしていた。
「智海さま、あなたを待っておりました」
女はそう言って微笑んだ。その笑みは、どこか湿り気を帯びていた。
夢から覚めた後も、女の面影は心に残り続けた。やがて智海は、修行の傍ら、しばしば夢の中でその女と逢うようになった。女の名は「葛子(くずこ)」といった。
或る夜、女は智海にこう言った。
「私はかつてこの寺のそばに住んでいた者です。蛇に生まれかわりましたが、あなたに会うため、幾度も人の形をとっています」
智海は身を震わせた。しかし夢の中とはいえ、女の肌はあまりに温かく、香のような匂いが漂っていた。
「あなたが私を拒めば、私はたちまち元の姿に戻ってしまうでしょう」
そう言った葛子の瞳は、まるで闇夜に光る蛇の目のようであった。
やがて智海の行状に異変が現れた。経の声に力がなくなり、坐禅の最中に眠ることもあった。ある朝、師僧が彼の房を訪れると、襖の隙間から、異様な光が漏れていた。中を覗くと、智海は仰向けに倒れ、胸の上に一匹の黒い蛇がとぐろを巻いていた。
蛇は師僧を見ると、スッと障子の破れ目から外へ消えた。智海は気を失っていた。以来、寺ではその話が広まり、智海は「蛇に魅入られた法師」と呼ばれるようになった。
ある夜、智海は密かに寺を出た。月の光が冷たく照らす中、彼はかつて夢の中で訪れたという古池のほとりに向かった。
「葛子……お前は本当に蛇なのか」
すると水面が揺れ、白い衣を纏った女が現れた。だが、今度はその姿が明らかに歪んでいた。首が異様に長く、舌が細く分かれていた。
「智海さま、あなたは私を恐れますか。けれど、恐れるものにこそ真実があるのです。私は、あなたの執着が産んだものなのです」
智海は思わず合掌した。だが、その手は震えていた。
次の朝、村の者が池のほとりで智海の衣だけを見つけた。衣は濡れておらず、まるで脱皮した蛇の皮のように、整然と置かれていた。
源七の話はそこで終わった。
「それで、この掛け軸は、その寺の本堂にかかっていたものなんです。智海の姿はもうどこにもありませんでしたが、この不動明王の火焔の中にね、なぜか蛇が描かれていたんですよ。最初からそうだったのか、それとも……」
源七は言葉を濁した。私は、再び掛け軸に目をやった。不動の足元に巻きつく蛇は、確かに、どこか人の眼のような、深い哀しみを湛えているように見えた。
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